死ぬ気になれば、何んでも出来るとよく言います。実際この言葉の裏には死ぬほど努力すれば何でもできる、という励ましやら皮肉やらの教訓が含まれているわけで、実際に死んでしまうことは想定されていないと思います。
つまり自分の命が維持できる範囲で最大限の努力をせよと言うことだと思います。
しかし今回私は、自分の責任とはいいがたい部分で、もしかしたら自分がこの世から消えていたかもしれないという体験をしました。この体験によって、少し人生観が変わったような気がします。
どんなに頑張っても、自分を取り巻く環境の激変で自然災害、交通事故、思ってもみない病気等である日突然自分の生活が立ち消えるということがあるんだなという実感です。
これまでは、そんなこと当たり前じゃん、と思っていましたが、実はそれは「私だけは大丈夫」という妙な自信に裏付けられた、全く根拠のない思い込みだったことに気が付いたということです。
深夜にとんでもない頭痛に襲われ、救急車を呼び、病院で気が付いたので、今これをこれを書いているわけですが、もしあの時病院で気が付かなければ、息子や母親は今でも泣き崩れていただろうなと思います。
つまり九死に一生を得たという感覚がここのところ非常に強くなっているということです。一方で人間の一生なんてあっけないもので、あの時病院のベッドで気が付かなければ、私の存在はこの世から消えていたということになります。
というわけで、いろいろな人の支えの気持ちが通じたのかどうかは不明ですが、この先りリハビリがうまくいき、元の生活に近い状態に戻ることができれば、これまでとはちょっと違う価値観で行動できそうです。
これまで私は、なるべく他人に迷惑をかけないように、目立つことを極力控え、静かに、人知れず生活する中で、自分のささやかな願いを実現するという生活が好みでした。
しかしもしこの先それほど命の余裕がないということを知っていれば(もちろん知りませんが)、もう少し羽目を外した生き方をしてみてもいいのかなと思うようになりつつあります。
具体的には、地味な服装を派手なものに変更する、静かで寡黙な性格を明るく社交的なものに変更する、冷静で感情的な振る舞いをしないように心掛けていますが、それをもう少し喜怒哀楽をはっきりさせても良いのかなといったようなことです。
いずれも他人ににそれほど迷惑をかけることはないと思うので、気持ちも楽。ちなみにここのところリハビリをするためにいろいろな療法士さんと話をする機会が増えているのですが、これまでは言われたことをきちんとやり遂げるというのが第一でした。
しかし少し心境が変わって、自分の現状を素直に療法士さんに告げ、さらに疑問に思ったことや、世間話の度合いを増やしていくと、なぜかいろいろな療法がスムースに行われ、また会話もスムーズになりました。
どうやらこれまでの私は、会話の中に無意識にバリアを貼っていたようです。これを取っ払って、自然に思ったことを口に出していたら、妙に会話がスムースになりました。
なんだか新しいコミュニケーションが生まれそうです。ちなみに私がこういったブログを書いていることが病院中に知れ渡っているようで、何人かの職員の方からIDやアドレスを教えてほしいというリクエストもいただいています。
さてどうなるか?今後の展開が楽しみです。
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